最近は「毒親」というワードがなんだか気軽に使われる感じになってますが、私も親の育て方を責めていた時期がありました。
でも「毒親に育てられたから不幸」という因果関係に必ずしも縛られる必要はない。そう思えるようになって、グルグル同じところを回るような苦しさから自由になれました。
親元を離れて暮らすようになった、距離感も幸いしていたかも知れません。
相手も苦しめようとやったのか分からない。生きていれば、逆に自分は完璧な親なのか?問われる側にもなっていきます。
自分を省みて、「誰も傷つけたことはない」と断言できる人はそういないですよね。許されたいなら、自分も誰かを許す。それが道理なんだろうなと思うようになりました。
逆に、原因がいじめや嫌がらせの場合、相手がこちらを苦しめようとした仕打ちにいつまでも苦しみ続けるのは、相手の思うツボということでもあります。
嫌なこと、悲しいことがあったからといって必然的に不幸でい続ける必要はないのに、そのままでい続ける、そこには実はメリットがあり、結局は自分のせいである。
アドラー心理学のこういう考え方、つまり「不幸なままいるのを選んでいるのは自分」なんてショックでした。厳しい。
でも、変えることのできない他人を責めることに忙しく、自分にできることで状況を変えようとしないのは怠惰とも言える、ということなんでしょうね。
毒親育ちだけどハッピーになっている、嫌がらせをされたけど、それを理由に不愉快でい続けたりしない。そんなあり方がいい。
ありきたりな因果関係からもっと自由でいていい、不安な時そう思い直しています。